世界遺産の白川郷と五箇山を取材

世界遺産集落・白川郷と五箇山を取材しました


初夏の白川郷
                             城山展望台から望む白川郷


2010年5月16日(日)、13日から続いた取材旅はこの日、中央自動車道、東海北陸自動車道と走り白川郷ICで降り、国道156号線を右折。

庄川に架かる橋を渡り、国道360号線へと左折。その先で右折し「萩町城跡展望台」を目指した。

萩原城跡の一角、「城山天守閣」の展望台から、まずは眼下に広がる萩町の集落を捉えた。
集落のはるか背後には、残雪を抱く白山が望め、集落と白山をファインダー内に組み立てたり、集落をアップで作画した。

とても気温が高く汗ばむ陽気だった。

萩町へと下り、トンネルを抜け、庄川の畔に整備されている「せせらぎ公園」へ向かった。

愛車を止め「であい橋」を渡ると「秋葉神社」の前に出て、そこから合掌造りの民家が続いた。
「明善寺」を見送り「山越通り」を散策。
この辺りまで上ると、さすがに観光客は皆無。山つきの田畑の中に民家がまばらに建ち、農事に没頭する人たちが日常の営みをしている。ありふれたこの光景…、何気ない日常の中にこそ、自然体で暮らす人々の魅力が、私の心を打つのである。
お仕事の邪魔にならないよう、そっと静かに歩いた。

坂を下って、国の重要文化財に指定される「和田家」と、その周辺を撮影。
水田に映える合掌造りの民家や、初夏の花咲く風物と建造物を捉えた。



白川郷は、岐阜県西部、庄川上流域に位置する。

1193年、源平の合戦のひとつ倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家の落ち武者が、祖先であるという。

1265年には嘉念坊善俊が鳩谷に真宗道場を開いてから白川郷の存在が知られるようになり、1460年には内ヶ島将監がこの地に入り、その15年後から白川郷を支配した。

江戸時代には金森氏の領地となり、のちに幕府直轄となっている。

明治・大正時代頃までは、交通が不便で秘境と言われ、そのために大家族制度が明治時代まで続く。
白川郷は周囲を山で囲まれた庄川の深い峡谷部に当たり、耕地が乏しく、雪に閉ざされる期間が極端に長いなどが要因し、耕地の細分を防ぐ住民の知恵から大家族制度が生まれ、厳しい決め事があったという。

まず家長は絶対の権限を持ち、家長と相続人の長男にのみ正式な結婚が許された。
したがって次男以下は、分家も正式結婚も認められなかった。
一軒になんと30~40人が寝起きを共にし、仕事と生活という集団の営みが行われた。

昭和初期に入ると、森林開発のために道路が開削され、昭和36年には発電用の大貯水湖が造られた。ダム地点の御母衣から上流の白川村集落までの間は、ダムの湖底へと水没してしまった。
現在は、鳩谷と萩町を中心とする地方にのみ往時の面影が見られる。

日本民家の茅葺屋根の構造は、丸太を人字型に交差させて棟木を支えるものが多く、この丸太を合掌、または叉首という。したがって本来は、この合掌造りの建造物をひろく指すべきだが、現在は、庄川上流域に分布する巨大な茅葺の切妻屋根を持つ民家の様式を合掌造りと呼ぶ。

これらの民家には住居用ではなく、養蚕や収納に使用された2~3層の床を設けているのが特徴。

合掌はもともと手を合わせて礼を行うこと。
胸の前で掌を合わせ、左右の十指を伸ばして重ねる。仏教はもとよりインドの礼法にも用いられ、信者間の挨拶、仏や菩薩に対する礼拝の作法として行われた。

白川郷に住む人々は、おそらく菩薩の象徴のひとつである自然豊かな森、五穀豊穣をもたらせてくれる多量の積雪、山の幸、川の幸、あるいは家族一同が一緒に暮らせる至福などに合掌の思いを籠め、合掌造りの建造物にも感謝と祈りを捧げてきたのではないだろうか。


昼食をはさんで、国道156号線を北へと向かい、五箇山集落を訪ねた。

菜の花畑やチューリップ畑を持つ民家もあり、カラフルな写真撮影を楽しんだ。

花咲く五箇山集落
        五箇山集落のチューリップ畑と茅葺民家




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たくましく生きる者の姿を。
厳かにして優しい大自然の表情を。
山岳写真家津野祐次と長谷アルプスフォトギャラリーのスタッフが綴る信州伊那市長谷にある、長谷アルプスフォトギャラリーの日記です!

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